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うん、やはりこのまま放置できないよ!中途半端はだめだ!
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(続き)
3月のプログラムに対して、両極端の反応があることを、ショパンは知った。最終的には絶賛だったにもかかわらず、ショパンはホ短調協奏曲を仕上げているとき、いつのまにか幾分自信を損なったようである。さらに、もっと長く外国に滞在して、名を成さなければいけないと深く悟った。しかし、田舎の環境を離れたいという気持ちは、親しい人やいとしい人すべてと別れなくてはならないという苦悩によって弱められた。ホ短調協奏曲に関する彼の疑いは、ティトゥスへの別の手紙の中に表されている。「僕の2番目の協奏曲は完成した。僕はまるで初心者のように感じている。ちょうど僕がピアノについて何も知らなかったときに感じたように。それは独創的などというものとはほど遠い。そして、僕自身、それについて学ぶことができないまま終わってしまうだろう。」ショパンの絶え間ない疑いは、両端の楽章よりも、真ん中の楽章に集中していた。その<ロマンス>は、対となるヘ短調協奏曲と同様に、コンスタンチアからインスピレーションを得て作られたものである。そして、ショパンは次のように述べている。「ロマンティックな、穏やかな、幾分憂うつな性格。それは心の中に美しい思い出を呼び起こす最愛の風景を見つめたとき受けるような印象を、伝えようとしている。……たとえば、春の夜のすばらしい月光。僕はその伴奏として、弱音器付きのヴァイオリンを書いた。よい効果が出るだろうか。まぁ。時が示してくれるさ。」

聴衆がホ短調協奏曲を先の協奏曲と同じくらい熱狂して受け入れたことを、時は示した。そして、そのスターについて、彼らの中に悪い評価は感じられなかった。1830年10月11日の公開主演(半ば私的なものは、数週間前にショパン家で行われた)は、ホルンの独奏ではなく、ヴォルコフ嬢のソプラノ歌が間に入った。次の日のティトォスへのショパンの手紙は、報告と喜びが半々だった。「昨日のコンサートは成功だった。僕は君に急いで知らせよう。僕は少しも神経質になっていなかった。そして、自分一人で弾くときのように弾いたことを、君に報告する。それはうまくいった。……そして、僕は4回も呼び戻されて、お辞儀をしなければならなかった。……」


TBC


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今天无意中逛到另一51饭的BLOG上看到了很爽很心有灵犀的感想,心情很不错所以多学点(啥)
自由な即興演奏と、協奏曲の中でしばしば見られるような構造の役割との間をつないでいるのが、《ポーランド民謡による大幻想曲》(1828年)である。ここには、ショパンの即興演奏の技が映し出され、組織化され、書き留められている。当時のイタリア・オペラからの歌(ロッシーニとベルリーにの旋律への愛着と装飾的な手続きは、作曲家としてのショパン自身の方向にとって、極めて重要だった)のほかにも、自国の民族音楽への傾倒が見られ、それは即興演奏の素材となるときに目立っていた。


ショパンが初めて外国旅行(ベルリン、1828年)から戻るときのおもしろいエピソードがある。馬を交替するために宿屋に寄ったときのことだった。ぶらぶらと数時間の遅れを過すために、その10代の少年は古くなってガタガタの楽器で、当時、人気のあった曲にあわせて、彼の想像をかきたてることに夢中になり始めた。彼は群衆を引き付けたのみでなく、その旅は、さらに遅らされてしまった。うっとりとした群衆が、彼を放そうとしなかったのである。


《大幻想曲》のポーランドの素材は、出所が明確だが、協奏曲は、より厳密に言うと、ポーランドの精神が漲っていると述べることができる。ちょうど即興演奏が《大幻想曲》の中に記譜され、そして協奏曲の構造的な要因となるように、民族的要素は直接的引用から潤色へ、さらに抽象概念へと移行した。種類や焦点の強さを変化させるのが、抽象概念である。舞曲風な結び楽章においては情緒と音の彩色において含蓄的であり、最初の楽章では語彙において微妙に明らかである。


ヴィーンでの大成功から帰った後、ショパンは、自国のワルシャワで、へ短調協奏曲を完成することによって、成熟した芸術家としてのデビュー(神童としての経歴はもちろん持っていた)の準備をしていた。(へ短調協奏曲は、二番目に出版されたために第二協奏曲と呼ばれている。このことは、ベートーヴェンの最初の2つのピアノ協奏曲との類似性がみられる。おそらく根拠が確実な唯一のものであろう。)


ショパンがどんな精神状態で仕事をしていたかは、ほとんど知られていない。しかし、彼が少年時代の友人ティトゥス・ヴォイチェホフスキに、同じ音楽院の学生でソプラノのコンスタンチア・ダワドコフスカに対する、心に秘めた、甘く、一人苦しむ愛について告白したことは、その例外である。「僕は彼女へ思いを寄せるうちに、協奏曲のアダージョ〔ラルゲット〕を作曲した。」彼は最初、この協奏曲をダワドコフスカ嬢に献呈したかった。しかし、出版が遅れたため(1836年)、結果として、彼のパリでのパトロン、デルフィア・ポトッカ伯爵夫人への献呈となった。


ヘ短調協奏曲は、1830年3月17日の国立劇場での公開初演の数週間前に、ショパン家での初演のリハーサルのようなものが行われた。初演の晩の種々雑多な曲目は、当時の最良のプログラミングを示している。序曲、協奏曲の第一楽章、ゲルナーという人によるフレンチ・ホルンのためのディヴェルティメント、それから、協奏曲のラルゲットとアレグロ・ヴィヴァーチェ、続いて休憩、別の序曲、ソプラノのアリア、最後に《大幻想曲》。結果はショパンにとって、まさに想像していた通りのものであった。彼はワルシャワのアイドルとなった。その直後に彼は、その晩の、どちらかといえば、雑多な意見を書いている。「最初のアレグロは、……(必ずしも全ての人に理解でくrわけでわないが)、『ブラボー』という賞賛を受けた。しかしこれは、聴衆が難しい音楽を理解したことを示そうとしたために受けたと信じている。わかったふりをしたがる連中がどこの国にもいるものさ! アダージョ〔ラルゲット〕とロンド〔アレグロ・ヴィヴァーチェ〕は、最大の効果を生み出した。これらの後の拍手喝采と『ブラボー』は、本当に心からのものだった。しかし、ポーランド民謡による混成曲は、完全に失敗に終わった。」


(TBC)


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タイトルの通り
しかし同時に、これらの作品(特に協奏曲)を、未発達なもの、ショパン様式の原型、あるいは取るに足らないものとして分類化すべきではない。18、19歳のショパンは、自分がしていることを本能的に知っていた。彼の様式に対する様々な試みは自信に満ちており、たとえ彼がそれについて幾ばくかの疑問を表明した場合でさえも、それは完全に彼特有のものだった。彼の声は、成熟しきった独創力をもって鳴り響いた。そして、決定的な非難が今日までしっかりと確立されているにもかかわらず、彼のオーケストラの処理は、彼の目的に見事にかなっていたのである。


これらのオーケストラ付き作品の中において、ショパンが最もやりたかったことは、キャリアを積むための手段としてよりは、おそらく、彼が特に自分の即興演奏のときにみせたように、彼が感じる強弱にそって演奏することだった。本来、即興演奏という芸術は、もちろんショパンが発明したものではない。18世紀を通じてロマン主義全盛の後期まで、(たとえ大勢の人であったとしても、特に聴衆を前にした)即興演奏の能力というものが、作曲家であろうとなかろうと、完全な音楽家としての必須条件であると考えられた。ショパンは自発的な即興演奏を楽しんだのみでなく、その中に作曲の鍵を見つけた。彼にとって意味深長な古典的形式と取り組む、というよりもむしろ、古典的形式を作る方法の鍵である。提示部、展開部、再現部という限定は、自然に、輪郭を規定している。一例には、《演奏会用アレブロ》が、その輪郭に基づいている。しかし、ショパンに関しては、提示部と展開部は、限りなく豊潤な旋律的変奏の並列へと作り変えられている。すなわち、巧妙で複雑な、しばしば半音階的な、それ独特の形式の正当さを手にしている展開部へと作りかえられている。


一方、協奏曲形式に関して、ショパンの手本は当時の標準的な協奏曲だった(明白に、フンメルの協奏曲;このジャンルにおけるモーツァルトとベートーヴェンの業績を、彼は知らなかった)ということも本当かもしれない。彼は自分がそれらをいかに役立たせるかということを、その時点で正確にわかっていたようだった。幼年時代でもなく、不完全でもなく、未出版でもなく、紛失してもいないショパンの協奏曲は、フンメルあるいはフィールドの協奏曲のように聞こえるかもしれない。それらがまさに、我々が今日聴く2曲であり、ショパンが完全に自らを語っているものである。


(TBC)


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CDのbkをタイプして勉強しよう〜
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ショパン


ピアノ協奏曲 第一番 ホ短調 作品11
ピアノ協奏曲 第二番 へ短調 作品21


ショパンの経歴がどんなものになるかは、彼がワルシャワを永遠に去ってパリに落ち着いたときには、まだ完全には決まっていなかった。彼は、作曲家としても演奏家としても、成功を経験していたのである。したがって、ヴィルトゥオーソとして聴衆の前に現れて、その主な演奏曲目が自分の作品であるような18世紀の人々や、モーツァルトの伝統に従うことも、彼には可能であるように見えた。ショパンの活躍した時代にも、このような伝統は続けられていた。−−ヒラー、モシェレス、ツェルニー、そして特にリストがその中心の人物だった。しかし、一般に知られているように、ショパンは、結局、このパターン遠のいてしまった。彼の気質、身体の構造、鍵盤上の技巧の性質、作曲の力は、生涯を演奏の舞台に費やすことに必ずしも合っていないことが、まもなくわかったのである。


しかし、青年期の終わり頃のショパンは自分の才能を十分に分析的にみる能力を持ちあわせていなかった。そして、先生、友人、家族などに勧められ、また彼自身の野心にも駆けられて、ヨーロッパの文化の都で、作曲家および演奏家という二股をかけた挑戦をするための準備をしていた。音楽界で公衆の注目の的となるためには、オーケストラ付きの作品が必要だった。このために、1827年から1830年の間、彼はこの種の曲を作るのに忙しかった。それらは、彼が生涯に完成したオーケストラ付き作品の全てであり、モーツァルトの《ラ・チ・ダレム・ラ・マノ》による変奏曲、クラコヴィアク、大ポロネーズ変ホ長調、ポーランド民謡による大幻想曲、それに二つの協奏曲である。しかし、注意しなければならないのは、ピアノ独奏曲も決して忘れしまわなかったことである。たとえば、作品10のエチェードの多くのものは、この時期に作られている。


ショパンは、十分に成熟して自分の音楽的の衝動を抑えることができるようになった時、決してオーケストラ付きピアノという構成に戻らなかったが、その決定的理由の一つは、彼が名を成すために書いたというこれらの作品の起源にある。ひとたび、形式考察から解放されたある種の構造(後のソナタは顕著な例外である)やピアノ曲が、作曲家としての彼の心を強く占めるようになるやいなや、そして、聴衆の反応を示さなくなるやいなや、当時、彼を異邦人として悩ませていた道を辿る理由など、ほとんどなくなったのに……。


いわゆるショパンの「節約の時代」には、オーケストラを蔑視しがちだった。オーケストラは、表情に富む伴奏あるいは補足するパートナーとして、必ずしも必要ないと彼は思った。常に和声的な冒険を試みることや、ピアノ限界を限りなく広げることによって、彼は自分が欲するもの全てを成し遂げることが出来た。


(TBC)


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